陶芸界の巨匠たちの名前を知らなかった頃、「ハマショーの壺がさ…」なんて会話を聞いても、「え?浜田省吾が陶芸を?」とか勘違いしていた入社したての頃(註1)、「細川首相のぐい呑みが」なんて聞いても、「『細川殊生』とかそういう名前の作家さんがいるのだな、一瞬あの細川もと首相かと思っちゃうよね。いやー危ない危ない」なんて間違った読みに自分で頷いていた頃(註2)、作家の名前には苦労したものです。皆が「鈴木蔵(すずきくら)の…」と言っているのでずっとそのまま「すずきくら」だと思っていたのに実は蔵(おさむ)と読むと知った時、「じゃあ鈴木治はすずきはるなのね?!」と思ったけれど、同じく「すずきおさむ」だったり(なので業界では「くら」「おさむ」と呼び分けたりする)、「ふじわらけん」も藤原建と藤原謙がいたり、なんだか紛らわしい。

だいたい読みづらいんです、陶芸家の名前というやつは。例えば一般人の名前で「山田花子」とあるなら99.9パーセントの確率で「やまだはなこ」さんだと思います。でもその人がもし陶芸家なら、「さんでんかし」さんかもしれないのです。

そんなわけで読み方を知らないうちは金重素山が「かねしげもとやま」なのか「かねしげそざん」なのかわからない。っていうかもしかしたら「きんじゅうもとやま」とか「きんじゅうそざん」とか、あるいはもっと知らない読み方をするかもしれない。『波山をたどる旅』でもカナちゃんが「なみ、やま…?」って言っている(註3)じゃないですか。いや、いたやなみやまなんて、しまざきふじむら(島崎藤村)くらいの読み違えだけど、知らなきゃほんとわからないです。もともと焼き物は中国から入ってきたものだし、だから藤原啓(ふじわらけい)とか藤原雄(ふじわらゆう)とか、なんとなく音読みの作家が多いのかと思っても「藤本能道(ふじもとのうどう)」だと思っていたら実は「ふじもとよしみち」だったりする(そのくせ皆「のうどう」って呼ぶ)。

陶芸家の名前というものはたとえば洋楽に興味のない人がiron maidenを「あいろんめいでん」と読んでしまい、NE-YOを「ねーよ」と読んでしまうようなわかりにくさ(註4)があります。洋楽ではそうそうない読み違えも陶芸分野では知らなければ頻繁に起こりうるのです。

作品名も大概わかりにくい。『色絵吹墨薄墨緑地草花文ぐい呑』とかどこで一息ついたらいいのかわからないようなこの作品名。肺活量が試されます。漢字もわざわざ難しい。『志野』だったり『志埜』だったり、『濁手菝葜文花瓶』とかいったいなんの絵が描かれているのか作品名を見ただけではわからないし、逆に絵志野の絵だったりするとどぅあっと描いてあるから作品名を見ないと何の絵かわからなかったりします。

でもだからこそ、という魅力もあるのも事実なのです。

知ろうとしなければわからない、ということ。通常の日本語ですらテロップの出るテレビ番組のあふれた超親切なこの世の中で、調べなくちゃわからない。だから調べるし、そうして深みにはまっていくのです。勉強すればするほどわかってくるという楽しさ、知れば知るほど奥が深い、という知識欲を刺激するようなものは一見わかりにくいものなのです。見た目の美しさを楽しむという楽しみ方のほかに、そんな楽しみ方ができる、一粒で2度おいしいのが近代陶芸の魅力なのですね。

例えばぽつんとさるの絵の描かれたお茶碗を見て、「なんで猿?」って思う。意図を調べてみるとその猿の絵は縁起を担いでいるものだったりして、「へえー」と嬉しくなってしまったりする。陶芸作品が、ただの道具・芸術作品というものではなく、そこには込められたストーリーがあることを知る。そういうのってなんだかわくわくしてきませんか。

「この人はこの人のお弟子さんなんだよ、だから、ほら作品が似ているでしょう?」なんて話してしまう時、単純に「私は皆が知らないことを知っている」って優越感もあったりするのかもしれない。そんなふうに書くとなんだか小さな人間のように響くけど、人なんてそういうものなのかもしれません。それって案外愛しい人間の姿なのではないでしょうか。

皆が知らない楽しさを知っているということは、人生を豊かにする要素を人よりも多く持っているということ、それはあなたの人生をより楽しく彩ってくれる。そんな風にも思うのです。

(註1) 濱田庄司。
(註2) 細川首相その人です。細川護煕。
(註3) 「波山をたどる旅」で、美女カナちゃんが波山の帯を見てつぶやくセリフ。
(註4) アイアンメイデンはイギリスのヘヴィメタル・バンド。ニーヨはアメリカのR&Bアーティスト。

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