陶歴

1833年
3月23日、京都府愛宕郡上賀茂神社の社家北大路清操の次男として誕生。本名芳次郎。生まれると直ぐに里子に出され、不遇な幼少時代を過ごす。
1903年
書家を志して上京。
1904年
日本美術展覧会で隷書の「千文字」が一等賞二席を受賞。宮内大臣子爵田中光顕に買い上げられる。
1921年
美食倶楽部を開設。
1922年
美食倶楽部で使用する食器を大量に菁華窯で制作。
1925年
東京赤坂に高級料亭•星岡茶寮を開設し、顧問兼料理長となる。
1936年
星岡茶寮解雇、以来北鎌倉で作陶に専念する。
1955年
金澤美術倶楽部で「私八先代菁華に教へられた」という演題で講演。
重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を辞退する。
1959年
12月21日死去(享年76歳)
魯山人は母の不貞によりできた子で、それを忌んだ父は割腹自殺を遂げた。生後すぐ里子に出され6歳で福田家に落ち着くまで養家を転々とした。この出自にまつわる鬱屈は終生払われることはなく、また魯山人の人格形成に深甚な影響を及ぼした。
6度の結婚(1908年、17年、27年、38年、40年、48年)はすべて破綻、2人の男児は夭折した。娘を溺愛したものの長じて魯山人の骨董を持ち出したことから勘当し、最晩年にいたっても魯山人の病床に呼ぶことすら許さなかった。その一方、家庭の温かみに飢えていた魯山人は、ラジオのホームドラマの何気ない会話、微笑ましい場面によく肩を震わせ涙を流して嗚咽したという。
美食家として名を馳せた魯山人は、フランス料理の外見偏重傾向に対しても厳しく、渡仏の際に訪れた鴨料理店「トゥール・ダルジャン」で、「ソースが合わない」と味そのものを評価し、自ら持参したわさび醤油で食べたこともあった。
つねに傲岸(ごうがん)・不遜・狷介(けんかい)・虚栄などの悪評がつきまとい、毒舌でも有名で、柳宗悦・梅原龍三郎・横山大観・小林秀雄といった戦前を代表する芸術家・批評家から、世界的画家・ピカソまでをも容赦なく罵倒した。この傲慢な態度と物言いが祟り、1936年(昭和11年)に星岡茶寮から追放されてしまう。逆にその天衣無縫ぶりは、久邇宮邦彦王・吉田茂などから愛されもした。
気難しい人物で、晩年魯山人の家で働いていたお手伝いさん曰く「風呂から上がると、決まった時間にキンキンに冷えたビールがさっと出てこないと満足できない方だった。それができなくて叱られ、辞めていったお手伝いさんを何人も見た」とのこと。
阪急電鉄の創業者・小林一三は、阪急百貨店で魯山人の個展を開いていた。その折、小林は、魯山人に対して、「少しでも安く売るようにしてほしい」と伝える内容の文章を、同百貨店の美術誌に掲載した。これに対し魯山人は、1943年(昭和18年)10月19日付で小林に宛てた手紙で、「これが高いと言われるのは不愉快だ」と反論し、さらに、同月17日には、その美術誌編集者を小林が気に入っていることが不思議だと、小林自身に対しても批判した上、展覧会中止を申し出た。

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