- 画像は富本憲吉記念館 安堵町役場から引用
陶歴
- 1886年
- 6月5日、奈良県生駒郡安堵村の旧家富本家の富本豊吉の長男として生まれる。
「憲吉」の名は、漢籍に詳しい父豊吉が田能村竹田の名「孝憲」から1字をとって付けた。 - 1897年
- 父、豊吉死去。
富本家の家督を継ぐ。 - 1899年
- 奈良県立郡山中学校入学。
数学、幾何が得意科目であった。 - 1904年
- 東京美術学校図案科に入学。
2年目から建築、室内装飾を専攻する。
在学中はマンドリン同好会に入り、藤田嗣治、南薫造、森田亀之輔らと親交する。 - 1908年
- 卒業制作「音楽家住宅設計図案」を早く提出し、ロンドンへ私費留学。
ウィリアム・モリスの思想に強い関心を抱く。
- 1909年
- ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館に通い、所蔵されている工芸品のスケッチを行う。
イスラム建築の調査助手に採用され、インドに出発。 - 1910年
- 帰国。
生涯の友人となるバーナード・リーチと出会う。
その後、リーチとの交流から楽焼に熱中。 - 1915年
- 安堵の自宅近くに本焼の窯と住居兼工房を築き、本格的に作陶活動を始める。一時期、柳宗悦の思想に共感して、民藝運動に参加する。
その後、しだいに独自の価値観による作陶を貫くようになる。 - 1926年
- 東京・祖師谷に移住。
本窯を築く。 - 1935年
- 帝国美術院会員。
- 1944年
- 東京美術学校教授。
- 1946年
- 京都で活動を行う。
この間、信楽・益子・波佐見・瀬戸・九谷で作陶を行い、既成の素地に独自の模様を描いた日常食器を制作する。 - 1947年
- 新匠美術工芸会を結成。
- 1950年
- 京都市立美術大学陶芸家教授に就任。
京都では、自作による量産品に加え、「平安窯」や「富泉」の銘で富本のデザインによる日常食器の頒布会を行う。 - 1955年
- 重要無形文化財「色絵磁器」保持者に認定。
- 1961年
- 文化勲章受章。
- 1962年
- 京都山科御陵壇ノ後に吉村順三設計、熊倉工務店施工による新居が完成。
- 1963年
- 京都市立美術大学教授を定年退職。
京都市立美術大学学長に選任される。
6月8日、肺がんのため死去。
故人の意志を尊重して戒名はなし。
従三位勲二等旭日重光章を贈られる。
遺書には、「墓不要。残された作品をわが墓と思われたし。」と記されていた。